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パラリンピック ボッチャで金 杉村「勝ち続け 注目集めたい」

パラリンピック ボッチャで金 杉村「勝ち続け 注目集めたい」

2021年9月21日 【NHK】

東京パラリンピックの球技、ボッチャで日本初となる金メダルを獲得した杉村英孝選手がNHKの取材に応じ「盛り上がりを一過性に終わらせないためにも勝ち続けることで注目を集めたい」と今後の決意を述べました。

ボッチャは、赤と青のボールを投げ合って白い的球にどれだけ多く近づけるかを競うパラリンピックの球技で、杉村選手は東京パラリンピックの個人で金メダル、団体で銅メダルを獲得しました。

特に金メダルはこの競技では日本選手として初の快挙で、NHKのインタビューに応じた杉村選手は「過去の自分に打ち勝つこと、そして何よりも大好きなボッチャを思い切り楽しむことをテーマに臨んだが、弱かった自分に勝てたのが決勝の結果につながった」と振り返りました。

また、障害の有無や年齢、性別に関係なくプレーできるスポーツとしてボッチャが注目を集めていることについて「東京大会が競技を知ってもらうきっかけになったことはうれしいが、この盛り上がりや勢いを一過性に終わらせないためにも、選手としては勝ち続けることで注目を集めていきたい」として今後の決意を述べました。

そのうえで「競技者としてこれからも成長していきたいし、障害がある方々が自分もやってみようかなとか、頑張ろうかなというような前に一歩進むきっかけになることができたらいい。目の前の試合を一つ一つ大事に戦ったその先にパリパラリンピックがあると思っている」と3年後を見据えていました。

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ボッチャは、白玉(ジャックボール)に近い球が多い方が勝ちと言う単純なルールですが、相手の玉を弾き飛ばしたり相手の得点進路を妨害したりと、攻防の駆け引きがあり初心者から上級者まで楽しめるスポーツです。京都では京都市障害者スポーツセンターが来年の1月に23年目のボッチャ大会を開催します。京都府では特別支援学校が東京オリパラを迎えるために取組んできています。

ボッチャは、小学生から高齢者まで取組めるスポーツで、縦12.5m横6mで丁度テニスコートの半分の広さがあればゲームができます。放デイでもコートがあれば簡単にチームゲームができるのでコロナ騒ぎが静まれば、京都府のボッチャ協会などにお願いして教えてもらうのも良いと思います。京都ではトヨタ自動車の販売店が協力してくれています。ボッチャと言えば車いすの競技のようにイメージしますが、歩ける人でも楽しめる競技なので、子どもたちと一緒に取り組んでいけたらいいなと思います。

複数児童に差別的な発言や体罰 特別支援学級で

複数児童に差別的な発言や体罰 特別支援学級で長期間繰り返す姫路の小学校教諭

2021/9/21 【神戸新聞NEXT】

兵庫県姫路市立小学校で特別支援学級を担当していた男性教諭が、同学級の複数の児童に対し、差別的な発言や体罰を長期間繰り返していたことが20日、学校関係者への取材で分かった。学校側は17日に保護者向けの説明会を開いて謝罪。人事権を持つ兵庫県教育委員会が、厳しい処分を検討しているとみられる。

関係者によると、男性教諭は数年前に同校へ赴任し、特別支援学級を担当。受け持っている児童の障害や特徴をからかうような発言を長期間、繰り返していた。ほかにも、プール指導の際にいやがる児童の顔を無理やり水に漬けたり、羽交い締めにしたりする体罰も加えていたという。

一部の保護者から教諭の行為に対する苦情が寄せられ、学校に行きたがらない児童もいたという。学校側は別の担当者らから事情を聴き、事実関係を確認した。教諭は現在、担当から外れているという。

17日にあった保護者向け説明会では、校長が事例を挙げながら経緯を説明したという。出席者の一人は「悩みを抱える児童や親に追い打ちをかけるような言葉もあった。男性教諭の行為は許せない。もう教壇に立たせないでほしい」と憤りを隠さなかった。

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「生きてる価値ない」「二度と学校に来るな」と暴言 特別支援学級で体罰の教諭

2021/9/21 続報【神戸新聞NEXT】

兵庫県姫路市立小学校の特別支援学級を担当する男性教諭(39)が児童に暴言や体罰を繰り返していた問題で、男性教諭の暴言には「生きている価値がない」「二度と学校に来るな」など、児童の人格を否定するような内容が含まれていることが分かった。本来、児童の特性に合わせた指導が求められる特別支援学級で人権侵害といえる事態が継続していたとみられ、兵庫県教育委員会は事態を重くみて、21日付で男性教諭を懲戒免職処分にした。

姫路市教委などによると、男性教諭は2011年度に採用され、16年度に同校へ赴任。18年度から特別支援学級の担任になり、自閉症や情緒障害のある児童向けのクラスを受け持っていたという。

暴言や体罰は複数年にわたり、計6人が対象になった。児童が指導に従わない場合にみられたという。男性教諭は「なかなかうまく指導できず、かっとなった」と説明。現在、心身の不調を理由に休んでいる。

同校によると、今回の問題について同校が本格的に調査を始めたのは今年6月から。暴言や体罰により学校を休んだり不登校になったりした児童はいないという。

同校では21日、全児童に校内放送で今回の問題について説明した。今後はスクールカウンセラーの枠や人員を増やして、児童のケアに当たるという。校長は「子どもにはつらい嫌な思いをさせてしまった。安心して学校に通えるよう精いっぱい対応したい」と話した。

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「またか」です。それも二重の「またか」です。また特別支援学級・学校での体罰教員、また兵庫県での虐待事例です。少なくとも障害児への暴力や暴言は「体罰」というようなグレーな言葉をメディアは使うべきではないと思います。児童虐待、傷害罪、暴行罪、侮辱罪の容疑者扱いをすべきです。こうした教員の暴力等は「初犯」ではないことが多いです。指導力不足教員は通常学級ではすぐに破綻するので、特別支援学級の担任を任せるか、支援学校に異動を勧めるケースが少なくありません。

講師なら、辞めさせることもできますが、正規教員は犯罪を起こさない限り簡単には解雇できません。公務員の既得権限と労働組合に守られているからです。時が経つまでうつ病か適応障害の診断を受けて病気休暇をとらせ、時期を見て異動させるのです。不適切な指導を何度繰り返しても、結果的には組織が自分を守ってくれるのですから、不適切指導を繰り返している教員は、自分の問題として受け止めていません。問題が表面化しても子どもや保護者が悪いと思っています。反省しているなら同じことを繰り返すわけがないのです。

また、子どもが犠牲になっているのに自己保身を優先する管理職を目の前にする教員は、不良教員を注意するのも告発するのも馬鹿らしくなります。こうして、職場は腐っていきます。自分もこれくらいないなら、あいつよりましだと子どもへの指導の質も熱意も落ちていきます。子どもの未来を担う教員に、罰を課して襟を正させるなどは本当に残念ですが、一罰百戒しかないのだろうと思います。学校教員による児童虐待には、厳しい処分で臨むべきです。

今回は懲戒免職処分となりましたが、社会的制裁を受けたとして刑事告発は受けないのでしょうか。減給10分の1か月で1か月分(5万円程度)の処分を受けた校長は「精いっぱい対応したい」と言ったのですから、暴行について刑事告発するのが筋です。解雇しても法的な瑕疵は償われていないからです。何百の児童が正しい大人とはどう決着を付けるのか見ています。現在、県教職員人事課長のみのコメントしか報道されていません。市長が即座に見解を発表しないのは、発表するほどの人権事件ではないと考えているのでしょうか。教育長では身内を切りにくいので、職員不祥事の際は市民から選ばれた教育長の解任もできる市長が相応しいと思います。最後まで姫路市の動向を見届けようと思います。

「小6女子いじめ自殺」事件に向き合わなかった名物校長

「小6女子いじめ自殺」事件に向き合わなかった名物校長は、教育長に栄転した
保護者たちが校長の対応に憤るワケ

2021/09/16 【PRESIDENT Online】

昨年11月、東京都町田市の小学校で、小6の女の子がいじめを苦に自殺した。この学校はICT推進校で、全国に先駆けて「一人一台端末」を配り、校長はその旗振り役として有名だった。しかし、いじめの背景に端末の存在があったことから、校長は「いじめは解決していた」と事実を否認。保護者たちはその態度に憤るようになる。

死から2カ月半後に重大事態の発生を報告
1月19日、山根達彦さん(仮名)、山根弘美さん(仮名)夫妻は代表委員会に出席して、娘の詩織さん(仮名)がいじめを苦に自殺をしたことを学校関係者に伝えた。

参加者は、PTA役員とクラス委員を務める保護者たち。これまでさまざまな臆測が飛び交っていたが、初めて、亡くなった本当の理由を伝えることができた。それを聞いた保護者たちは学校の対応への不満を口にした。

「詩織さんはいじめられていたことを9月の心のアンケートに書いていたのに、それがいかされなかったことは残念でなりません。いまのままでは学校に不信感が募るばかりで、このまま学校に通わせていいのか大丈夫なのか、不安です」

「正直、学校側の対応には落胆しました。今回の山根さんのことは、絶対闇に葬られてはいけません。学校側はこのまま終わらせていこうとする姿勢としか思えません。山根さん親子の声、この出来事を、子どもたちを含め全世帯で共有してこそ、私たちも次に進める第一歩になるのではなかと思います」

「先日の代表委員会の場で、校長先生があの場を去ったことにとても違和感を覚えました。緊急事態宣言のなか、学校へ向かう意味がある、話し合いの場だと思い、足を運びました。これは一人のお子さまが亡くなっている、命の話なのに、一方的に漠然としたお話をされ、この話を代表委員の保護者にしか説明しない……というのは、どういうお考えのもとなのでしょうか。昨今は、先生方がとても忙しいように見て、ICTも大事だと思うのですが、もう少し本質的な学校の在り方を見直してほしいと思います。ぜひ、学校には形だけでなく、心の通った対応をお願いしたいです」

PTA会長はこうした声を「意見書」にまとめて、1月22日にA校長に提出した。1月27日という約束の期限から遅れて2月1日に返ってきたA校長の回答には、「遺族の意向に沿ってやってきた」という嘘が書かれていた。

山根夫妻は12月25日に「いじめの調査の第三者委員会を立ち上げてほしい」という要望を伝えている。しかし、A校長が「重大事態」が起きたことを町田市教育委員会に報告したのは、2月15日のこと。11月30日の詩織さんの死から2カ月半もの月日が経過していた。

2013年に制定された「いじめ防止対策推進法」では、第28条第1項に「いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認める」事態(自殺等重大事態と呼ばれる)を「重大事態」と定義。重大事態が起こった際には速やかに教育委員会などに報告し、第三者委員会を立ち上げて調査することを求めている。A校長の対応は、法律の趣旨を無視するものだ。

「いじめで自殺は間違った噂」と保護者に説明
2月20日には全校の保護者を対象にした臨時保護者会が開かれた。ここでも詩織さんが亡くなった理由は説明されなかった。むしろA校長は、「いじめで亡くなったという“間違った噂”が流れている」と話した。

「A校長は冒頭で、『いじめで亡くなったという間違った噂が流れているので臨時保護者会を開いた』と説明されました。そして、『遺書を見て、9月にはいじめがあったことを認識していたが、10月、11月の心のアンケートには何も書いていないので、解決した。いじめと自殺は関係ない』と話されました」(PTA会長)

そして、「タブレット端末の使い方とネットトラブルの防止について」というプリントが配られた。そこには「町田市の方針で2020年11月にチャットは使用不可設定になり、本校でも使えなくなったこと」「児童のIDパスワードは家庭と学校で管理すること」などが書かれていた。

学校では昨年12月中旬、唐突に子供たちの端末のアカウントを作り直させている。

そこでは従来の方針と変わって、個別にパスワードを設定させているが、なぜ、そのように変更したのか、理由の説明は一切ない。従来のやり方に問題があったから、アカウントを作り直したのではないのか。

A校長は、メディアでの取材でICTについて「あえてルールを設けず、子供の自主性に任せて、失敗のなかで学ばせる」という方針を語っている。だが、いじめについても、端末利用のトラブルについても、どこに問題があり、どんな解決策を採ったのかを説明していない。それは「失敗のなかで学ばせる」という言葉に反しているのではないだろうか。

死から3カ月後に、初めて弔問に訪れる
2月24日。山根夫妻は、突然、A校長が副校長と6年生の担任3人を引き連れて自宅へ弔問に訪れたので、心底驚いた。これまで自宅には一切来ようとしなかったからだ。

父親の達彦さん(仮名)は、思わず「一体、どういう風の吹きまわしだい?」と聞いてしまった。詩織さんの遺影の前に無言で座るA校長らに対し、母親の弘美さん(仮名)は、「3カ月もたったのに、これまでどうしてきてくださらなかったのですか? どうして、死んでまで何もしてくれなかったのですか? 卒業まで子供たちに何をしてあげるのですか?」と泣きながら、問いかけた。

父の達彦さん(仮名)と詩織さん(仮名)。父の日の思い出のスナップ父の達彦さん(仮名)と詩織さん(仮名)。父の日の思い出のスナップ(写真=母親提供)
A校長は「私たちが本当に至らなくて、申し訳ありません。失礼な対応がいろいろあったので、謝りにきました」と説明した。「失礼な対応」とは、詩織さんの机と椅子が片付けられてしまった件を指す。詩織さんが亡くなった後、詩織さんの席に勝手に座ってしまう子供がいたため、担任のB先生が机と椅子を片付けてしまったのだ。弘美さんは「卒業まで詩織をクラスの一員でいさせてほしかった」と泣いた。

この日は加害者のC子・D子とその親も弔問に来ていた。立て続けの訪問に「今日は何かあったのかな?」と山根夫婦は顔を見合わせた。

その日に何があったかは、あとで知ることになった。この日の午前中、A校長が東京都の自治体の教育長に任命されたのだ。山根夫妻は「正式に任命されて安堵したから、弔問に来られるようになったのではないか」と受け止めた。

子供たちの心に傷を残したまま卒業
3月11日の定例の6年生保護者会では、学校側が初めて「自殺の原因の一つに、いじめがあったこと」を認め、対応を謝罪した。

事件後、詩織さんの担任のB先生は精神的に追い詰められて、学校にいけない時期もあった。謝罪した際に、副校長や6年生の担任の先生たちは目に涙を浮かべながら、深々と頭を下げていたが、「A校長だけはうんざりした様子で、下を向いてうなだれるだけで、頭を下げることはなかった」と保護者は口をそろえる。

そしてA校長は3月末に定年退職し、この4月より教育長を務めている。

詩織さんと幼なじみだった娘を持つ保護者は言う。

「詩織ちゃんが亡くなったと知ったあと、娘は一人で夜寝ることができなくなりました。夜に何度も起きて、学校であったことを思い返し、メモを取っています。熟睡できなくなってしまったんです」(加藤和江さん/仮名)

詩織さんと同じクラブ活動をしていた同級生の女の子は、卒業式が終わってすぐに全身にじんましんが出た。医師は「精神的ストレスだろう」と診断したという。学校が怖くなってしまった子供や、部屋に引きこもるようになってしまった子供もいた。

「2月下旬に『命の授業』が開かれましたが、娘のクラスでは子供たちが『こんな授業をしたって意味がないじゃないか』『いじめだって、否定したくせに』と泣き怒りして大変だったと聞きました。結局、子供たちの心に向き合わず、深い傷を残したまま、卒業となってしまいました」(加藤さん)

詩織さんの母、弘美さんは訴える。
「私たちはかけがえのない娘を失って、何があったのか、本当のことを知りたかった。学校でいじめが起きてしまうこと、それ自体は、先生たちの責任ではないと思っています。ただ、解決に向けて子どもに寄り添ったり、原因究明に真摯に向き合ってくださらなかったことに絶望しています。学校ではいじめ自殺が起きたときに、いじめの事実を隠蔽するケースがあとを絶ちません。なぜなのでしょうか? A校長が教育長に栄転したように、学校はいじめを隠蔽した人が評価される組織なのでしょうか? ことなかれ主義を変えない限り、これからもたくさんの犠牲者が出てしまうのではないかと危惧しています」


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プレジデントオンラインの取材には、いじめの実態と自殺後の校長とのやりとりなどが詳細に報道されていました。ご両親が文部科学省にまで出向き記者会見をした背景には、学校側への不信感、学校だけに任せていたら本当のことがわからないままになるという思いが強かったのだと思います。児童が亡くなり学校に原因がなかったかどうか調べて欲しいと要請されているのに、その説明責任を怠っている時点で、行政のトップが、その対応のまずさについて詫び、責任者を処分するのが普通の社会常識です。

責任者である校長を処分もせずに満額の退職金を払い渋谷区教育長への就任を黙認する町田市長も、就任させる渋谷区長も、都の学校教育を指導する都教委や都知事も、社会的な影響を考えれば、元校長に踏みとどまるように促すのがトップに立つ者の責務であり社会的な常識だと思います。そして、前回も書きましたが、これはICT教育の指導に直接の原因があるのではありません。いじめ防止対策や人権教育がどの程度行われたのか明らかにし、学校はいじめ防止法にそって粛々と対応をしたかどうかを調査することが大事です。

ピントのズレた追及をメディアはまだしていますが、責任者たちの行動を取材することの方が先です。権力者は自分に火の粉がかかるのを嫌がります。メディアが騒ぐICT教育の問題にしてくれた方が助かるのです。渋谷区で特別公務員として区長から教育長を任命され、承認した議会がどういう対応をするのか、メディアの取材はそこに集中するべきです。そして、町田市長は関係者の責任を曖昧にせずトップの姿勢を市民に示すべきです。行政が招集する第三者委員会は時間ばかりかけて責任があいまいになる可能性があります。小学生の自殺原因だけでなく学校や行政対応の不適切さも法的に明確にしたほうが、全国で起こっている公的機関の不作為に歯止めをかけるものになると思います。

 

パラ開催の意義。 「アギト」って何?

パラ開催の意義。 「アギト」って何?【二宮清純スポーツの嵐】

2021/09/17 【ラブすぽ 】

1964年の東京大会では出場は53人だった
パラリンピック開幕の6時間前、都内上空を7機のブルーインパルスが飛行した。
夏空に描かれた赤、青、黄の3色のカラースモークは、パラリンピックのシンボルである「スリーアギト」にちなんだものだ。

アギトとはラテン語で「私が動く!」の意味。困難なことがあっても諦めず、前に進む――。そんな意味が込められていた。1964年の東京大会でもパラリンピックは開催されたが、日本からの出場選手は53人にとどまった。

<53人はほとんどが国立病院・療養所の患者や訓練生で、仕事をしていたのは自営の5人だけ。スポーツの経験もなく、この大会のために短い練習期間で間に合わせていた>(笹川スポーツ財団HP)

日本の選手たちが一番驚いたのは、外国の選手の多くが職を持ち、結婚し、人生を謳歌していたことである。というのも、当時、日本における障害者は病院や療養所の世話になる「患者」であり、すなわち行政的には「保護の対象」でしかなかったからだ。

日本における“障害者スポーツの父”と呼ばれる故・中村裕医師は、障害者にスポーツを薦めると「障害者をさらし者にするな!それでも医者か!」と周囲から随分、反発を受けたという。まだ、そんな時代だったのである。

2011年8月に施行された「スポーツ基本法」には、<スポーツは、障害者が自主的かつ積極的にスポーツを行うことができるよう、障害の種類及び程度に応じ必要な配慮をしつつ推進されなければならない>と明記されている。

しかし、現実はどうか。こんな話を聞いた。
「私も公園でつらい思いをしたことがあります。息子が公園で遊んでいると管理人さんに“危ないから遊んではダメだ”と注意されることが多かった。それ以上につらいのが、保護者たちの視線でた。“近付いてはダメ”“見てはダメ”。そんなささやき声が聞こえてくることがあり、親としても精神的に堪えます。それも障害のある子どもの“公園離れ”の一因です。“障害”に対する理解を深め、社会を変えていかなければいけないと思っています」(※一般社団法人日本車いすスポーツ協会代表理事・坂口剛)

今回のパラリンピックで、日本がいくらメダルを獲得したところで、障害者に対する理解が深まったり、スポーツをする環境が改善されないことには開催した意味がない。
問題があれば、「私が動く!」。その意識を国民全員が共有することが肝要だ。

初出=週刊漫画ゴラク2021年9月10日発売号
※<坂口剛(さかぐち・つよし)プロフィール>
一般社団法人日本車いすスポーツ協会代表理事。1975年、福岡県出身。2006年、長男が交通事故に遭い、車いす生活になったことを機に、車いす利用者に環境のいい土地に移り住む。2009年に浦安ジュニア車いすテニスクラブ(現・車いすスポーツクラブ ウラテク)を創設。パラスポーツ参加を推進すべく、さまざまな活動に関わる。2017年には日本車いすスポーツ協会を立ち上げた。好きなスポーツは、かつてサッカーとゴルフだったが、今はテニス。

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私が動く=アギト。パラシンボルに込められた思いが伝わります。思い出したのが、「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」でした。国際連合の人権条約、「障害者の権利に関する条約 2006 年」採択への原動力となった、世界中の当事者の合言葉でした。障害者やその関係者が自発的に動いてこそ理解は本物になるのだと思います。

「スポーツ基本法」の「障害者が自主的かつ積極的にスポーツを行うことができるよう、障害の種類及び程度に応じ必要な配慮をしつつ推進」する主語は行政ですが、地域の公園や広場で障害者がスポーツを日常に楽しむ姿がなければ、社会は動きません。発達障害に伴うDCD(発達性協調運動障害)を持つ子にもスポーツを楽しむ権利はあります。でも、DCDのない子どもと一緒にゲームをしてもスポーツの楽しさは味わいにくいです。

パラスポーツは、一つの種目でも何段階にも障害のレベルを分けて公平に競技ができるように設定されます。或いは、車いすバスケや車いすラグビーなどのチーム戦なら、個別の障害の重さでポイント数を決めて、チームの総合ポイント数が同じになるようにして対戦するルールとなっています。スポーツは戦う相手が同程度の条件でなければ勝っても面白くありません。トランスジェンダー選手の女子競技への参加問題がスポーツ界を賑わしていますが、そもそも性ホルモンの違いで筋力差があるもの同士が戦っても、試合をする人も見ている人も面白くないのと同じです。

DCDの子ども同士が、不器用を気にせずゲームができるコートがあったらきっとスポーツ好きになれるはずです。このパラリンピックを機に「私が動く!」必要があると思いました。サッカーでもラグビーでも、バレーボールやバスケットボールでもDCDや知的障害専用のコートとコーチが欲しいです。その前提として、放デイの子どもたちが公園に出てスポーツを楽しむ日常があり、それを普通に知っている地域の人たちの理解の広がりが大事だと思います。今日も公園でスポーツをみんなで「アギト」しよう。

女子のスラックス制服、県立高で4校のみ…「防寒・ジェンダー平等」

女子のスラックス制服、県立高で4校のみ…「防寒・ジェンダー平等」から検討は広がる

9/15(水) 【読売新聞】

青森県内の県立高校(全日制)55校のうち、性別を問わずスラックスの制服を選べる学校が4校にとどまることが、読売新聞のアンケート調査でわかった。ただ、スラックスの制服の導入を検討している学校も6校あり、防寒性や機能面、多様な性へのあり方から制服選択制を進める動きが徐々に広がりつつある。(八巻朱音)

調査は、5~6月に全55校を対象に実施し、50校から回答を得た。
女子用スラックスの制服を導入している4校は、弘前高、弘前南高、三本木農業恵拓高、五所川原工科高だった。

導入を検討している6校は、八戸東高、七戸高など。検討の理由(自由回答)を尋ねたところ、「防寒の観点から必要」「性的少数者への配慮」「ジェンダー平等の観点から、制服を見直す必要性があると判断した」などを挙げた。

一方、現時点でスラックスの制服がない学校に理由(複数回答可)を問うと、「生徒から要望がない」(27校)、「閉校などで既存の制服がなくなる可能性がある」(11校)などだった。

今年4月、上北地区3校を統合して十和田市に新設された三本木農業恵拓高は、開校を機に、防寒や機能性の点から制服を新調した。新設校のため在籍は1年生だけだが、女子生徒の約1割の11人がスラックスを購入したという。

スカートとスラックスの両方を持っているという動物科学科の女子生徒は「スラックスは寒い時期に暖かく着られる。気分や気候に合わせ、はき分けている」と話す。植物科学科の女子生徒も「女だからスカート、男だからスラックスと決められていないので、着たい方を着て自分を表現できる」と喜ぶ。

七戸高は、ユニセックスの制服の導入を視野に、生徒指導保健部の教員らが制服の選択制を検討中だ。森田勝博校長は「生徒から要望があったわけではないが、スカートをはきたくない生徒も少なからずいるのではないか。着たい制服を選べることで学校生活を気持ちよく送ってほしい」と理由を語る。

弘前大の山下梓助教(国際人権法)の話「自分にとって着心地のよい制服を選べることは、自分自身をどう表現したいのかを考える姿勢を育むことにもつながる。教諭に評価される側の生徒が要望を控えることは十分に考えられるため、相談しやすいルートが整っているかを改めて見直す必要がある」

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話がややこしくなるので、防寒の制服の意義についてはおいておくとして、ユニセックスの制服があればトランスジェンダーの生徒の違和感や差別問題は解決するのかどうか全く不明です。みんな一緒の服にすることは、違いを認める事にはならないからです。むしろ、そこまでして学校の制服を着る意味があるのか訳が分からなくなってきます。性差のない衣服を着る事が、多様性を認める社会ではないと思います。

確かに、男子用・女子用どちらの服を選んでもいいというのは合点がいきます。女子の制服を着たい人や男子の制服が着たい人は生物学的な性と関係なく着られると言うのは良い方針だと思います。ユニセックス制服とは意味が全然違います。しかし、個々の生徒の嗜好性によって制服の枠組みを崩していくなら、制服など廃止すればいいと言う結論に行きつきます。

制服などやめて、標準服として提示して別に私服でも構わないというのが自然です。標準服は、中高生で格式ばったところに着ていく服を買うのはもったいないというニーズや、中高生になったという帰属意識を制服に求める親や子のニーズにこたえるものです。そんなものは着たくないと言う人もいていいよというのが標準服制度です。

制服と言うからには入学と引き換えの義務と言う枠組が残ります。ジェンダーレスだダイバーシティだと理屈を並べてユニセックス制服を作って様式だけを変えても、制服の枠組は残すというのなら、これはエセ多様性と言われても仕方ないです。信念もなく流行に流されるような中途半端なことはしないほうがマシだと思います。

「いじめ自殺」学校配布タブレットの管理は

「いじめ自殺」学校配布タブレットの管理は

9/15(水) 【日テレ】

東京・町田市で小学6年生の女子児童が自殺した問題で、14日も調査が行われましたが、いじめの舞台になったと指摘されているのが、授業で使うため1人1台配布されているタブレットです。その管理の仕方に問題がありました。

小野高弘・日本テレビ解説委員国際部デスク
「去年11月、女子児童は自分の部屋で自殺しました。残された遺書には、いじめの内容と複数の同級生の名前を挙げて、『おもちゃじゃない』と訴えました。何があったのか、わかってきました。児童らは、学校から配布された1人1台のタブレットでチャットを利用していましたが、そこで女子児童について『うざい』『死んで』といった悪口が書き込まれていました」

「今回明らかになったのは、そのタブレットのアカウント管理がずさんだったということです。ログインするのにIDとパスワードが必要ですが、IDは出席番号を基本としたものでした。パスワードは全員が同じ『123456789』にしていた期間がありました。自殺があった当時含めて1年間、そうだった可能性があります」

日本テレビ・佐藤梨那アナウンサー
「出席番号は、同じクラスならみんなすぐにわかりますよね」

小野解説委員
「それにパスワードは、先ほどの数字を入れればいいので、他の人になりすましてログインができるということです。文科省は、IDは個々のものを作ってなりすましができないように、と指針を出していましたが、この学校の対応は不適切だったと言わざるを得ません」

「その結果どういう状況が生まれたかといいますと、例えば2人の児童の間で、チャット上で『○○がうざい』とやりとりしたとしても、この2人のIDとパスワードは誰でもわかるわけですから、事実上、クラスの誰でも見られる状態でした。悪口を言われた本人も、このやりとりを見られるわけです。学校でも家でもアクセスできる限り、悪口を目にし続けることになります」

佐藤アナウンサー
「いま、タブレットを使って授業を行っている学校も、多いと思います」

落合陽一・筑波大学准教授(「news zero」パートナー)
「学習のために特化したタブレットであれば、個人情報をその中に保存するわけではないので、パスワードが共通でも、運用上はそんなに問題ないのではと思います。なりすましについては、端末のIDは残るので、追跡はできるはずだと思います。これはデバイスや管理の問題というよりは、デジタル、非デジタル関係なく、いじめがオンライン上で行われても、フィジカルで行われても『先生に言うように』など、いじめを把握して対策する声掛けというのが必要だったことなのではないかと思います」

佐藤アナウンサー
「萩生田文部科学大臣は14日、『端末の管理などについて、さらにどのような対応をすべきか検討する』と話しています」

9月14日放送『news zero』より。

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タブレットの管理が悪くていじめが起こったわけではないという落合教授のコメントは正しいです。事件は、自殺した6年女子がいじめに関与している子のIDでログインし、自分を卑下するチャットのやりとり内容を知って自殺したと言うものです。他者IDでなりすましログインができなければ自殺を防げたかどうかはわかりませんが、落合教授が言うようにデジタル(ネット空間)でもフィジカル(現実空間)でもいじめは起こるのですから、その学校のいじめ防止対策や人権教育はなされていたのか、4年生から起こっていたいじめについて、担任は真摯に受け止めて対処したのかという事にメディアは注目して報道すべきです。

少なくともIDやパスワード管理の問題ではないという観点を記者が持てば、真正面からいじめの原因の取材ができるはずです。町田市教委が昨年11月の事件を未だに調査中だという事にピントを合わせるべきです。そして、子どもが一人亡くなった事件から1年近くたっても結論も出せない事態を町田市長はどう考えているのか、メディアはインタビューすらしていないのです。

最近のメディアの事件の取り上げ方はピントがずれていることが少なくありません。パラリンピックの学校連携問題も、オリンピックの総括で感染拡大と人流とは全く関係がないと結論されているのに、パラ観戦での教育的効果や子どもの感想やエピソードの取材よりも、どこの学校が感染を恐れて断ってきたかという記事に終始し、子どもの障害理解やスポーツ理解とはほど遠い、感染恐怖を煽るだけの記事を垂れ流し続けました。

今回の話も、いじめをどうやって防止するのかという話ではなく、目新しい学校タブレット配布に便乗して、その設定がいかにずさんであるかと言うところにフォーカスして、いじめの解決とはピントのズレたところでの不安感を視聴者に抱かせてしまいます。子どもがいじめで1名亡くなっているのですから、いじめの解明にむけた報道は、殆どが無症状の子どものコロナ感染報道よりもはるかに重要なはずです。

ただ、小学生の保護者が、あえていじめの問題を社会的に注目させるために、そして、配布を推進した文科省や政治家トップに注目してもらうためにICT教育を問題にしたなら話は別です。保護者がいじめ調査を要請しても学校も市教委も取り合おうとしなかった結果の知恵だとすれば、それは許される行為だと思います。

障害児手当 地域差なくし公平な運用を図れ

障害児手当 地域差なくし公平な運用を図れ

2021年9月14日(火)【愛媛新聞】

20歳未満の障害児のいる家庭に支給される国の「特別児童扶養手当」で、人口当たりの支給対象児童数や申請件数に自治体間で最大約5倍もの差があることが分かった。

国の制度であるにもかかわらず、住んでいる地域によって支給状況が異なることは不公平と言わざるを得ない。申請基準が曖昧な上、判定医の裁量で可否が左右されることが指摘されている。長年自治体任せにしてきた国の責任は重い。早急に現状を把握し、基準の明確化や判定方法の見直しなど制度の適正な運用を図らねばならない。

手当は障害児を育てる経済的な負担を補うことを目的とし、保護者の申請に基づいて都道府県と政令指定都市の判定医が審査する。2021年度の支給額は1級で月5万2500円、2級で3万4970円。全国で約24万人が受給している。

厚生労働省の19年度統計データを共同通信が分析したところ1万人当たりの対象児童は全国平均で121人。最も多い沖縄県の269人と、53人と最少の東京都で5・1倍の差。申請件数でも1万人当たり40件の大阪市と8件の東京都で5倍の開きがあった。愛媛県は対象児童152人、申請件数18件だった。

特に問題なのが障害が軽度の場合だ。申請を受け付けるかどうか自治体によって線引きが異なる。

知的障害の療育手帳で最も軽い第4段階の児童について、東京都は支給対象の目安に含めていない。そのため申請すらできない状態だ。一方、沖縄県は第4段階でも対象外とはしておらず、実際に支給されている例もあるという。所得制限があるため一概に比較はできないが、対象児童数や申請件数の少ない自治体では多くの軽度障害児が門前払いされているとみられる。

申請しても「障害が基準より軽い」として却下される件数も増加傾向にあり、10年前の3倍近くに上る。発達障害の認知度が高まり申請件数が増えていることが背景にあるものの、却下率に自治体間で大きな差が出ていることは見過ごせない。

そもそも国の基準自体が曖昧だ。例えば自閉症など発達障害の2級は「社会性やコミュニケーション能力が乏しく、不適応な行動が見られるため、日常生活への適応に援助が必要」と示すだけである。

各自治体では診断書などの書類を見て支給の可否や等級を審査するが、判定医1人が担うため個人差が出るのは否定できまい。検査数値や外形で分かりやすい身体障害に比べ、発達・知的障害は判断が難しいはずだ。専門医や生活状況を知る福祉職らを加えて複数で審査するなど判定方法の見直しを求めたい。

共生社会がうたわれる中、どこに住んでいても障害児の子育てを安心してできる環境が欠かせない。対象児童を取りこぼすことのないよう制度を整え、自治体や関係機関に周知を徹底することは国の責務である。


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障害児手当、不支給が大幅増 10年で3倍近く、6割却下も

8/29(日) 【共同通信】

障害児のいる家庭に支給される国の「特別児童扶養手当」で、自治体に申請しても「障害が基準より軽い」として却下される件数が2019年度までの10年間で3倍近く増えていたことが29日、国の統計データから分かった。

申請の6割超を却下している自治体もあった。自治体の判定医の審査が厳しくなっている可能性がある。審査基準が曖昧で、判定医の個人差で左右されかねないとして、障害者団体からは基準の明確化や審査方法の見直しを求める声が上がっている。

厚生労働省の統計「福祉行政報告例」によると、09年度の却下件数は1410件だったが、19年度は3950件と2.8倍に増加した。


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これまで、親のしつけや家庭環境が原因とされていた子どもが、そうではなく生まれつきの発達障害が原因と発達障害支援法に認められて15年が経過しています。新たに障害と認められたのですから、当然、障害者手帳の発行数も特別扶養手当の支給額も膨らんで当たり前です。申請の6割を却下しているとは常識はずれの驚くべき事です。判定医の審査が厳しいとか厳しくないとか言いますが何が基準なのかわかりません。審査と言っても医学診断が基本ですから、5倍も差が出るものはそもそも診断とは言えません。個人的にせよ組織的にせよ基準や根拠のないバイアスが働いて不公平が日常的に生じているという事です。

確かに、どんな症状にもグレーゾーンは存在しますし、実はこのゾーンの人が一番多いとも言えます。だからこそ新しい障害基準ICFは社会参加の状態で支援の内容を考えるべきだと示唆しています。例え障害の程度は軽微でも、自尊感情が低く不登校傾向が見えるなら質的に高度な支援が必要です。障害が比較的重くても、周囲の理解があり意欲的に社会参加ができているなら最低限の支援で良いのです。

社会参加に支障がないのに、親が好んで子どもの障害を認めたいはずがありません。必要だから求めているのです。2級で月額3万4970円、500万円の年収の日給換算をすれば2日程度の賃金です。他の親より月2労働日程多く支援するだけの給付なのに、半分以上の申請を、この子は該当しないと却下する担当者の顔を、一度見てみたいです。

ただ、わかりやすい基準、ガイドラインを明らかにしない政府にも問題はあります。教育・福祉・医療の少なくとも2分野で特別支援や発達障害支援を日常的に受けている事、というような条件提示で2級判定は十分だと思います。診察に付き添ったり、事業所に出向いたり、相談に行けば月2日などあっという間に無くなります。そういう現実を知らない担当医や担当行政官が、勝手な思い込み(主観)で却下しているなら権力の濫用と言われても仕方ないです。

それにしても、京都府の説明は不親切です。同じ京都でも京都市は分かりやすく自閉症の適用を説明し、神奈川県はさらに丁寧です。これも、自治体格差なのです。役人はどんな説明しようが、それも自治体の権限だとはさすがに言わないでしょうが、毎年、ちっとも変わらない分かりにくいパンフを作っている自治体があるとすれば、やる気がないと言われても仕方がありません。

ラグビーの聖地「花園」で育む東京パラのレガシー

ラグビーの聖地「花園」で育む東京パラのレガシー

2021/9/10 【産経WEST】

障害者アスリートたちが無限の可能性を世界中に発信した東京パラリンピック。東京五輪からのテーマである多様性を認め合う社会の実現へ、いち早く取り組んでいるのがラグビーの聖地「花園」で知られる大阪府東大阪市だ。国内初の車いす専用の屋外スポーツ施設が今年2月、花園ラグビー場の隣にオープン。障害者と健常者がともに同じコートで汗を流す。五輪・パラの熱狂を一時のものに終わらせず、レガシー(遺産)として未来へつなぐ。

「(車いすを)こいで! こいで!」
「ナイスキャッチ!」
東京五輪開幕翌日の7月24日。ラグビー場のある花園中央公園内の「市立ウィルチェアスポーツコート」で、車いすソフトボールの体験会が開かれた。同地で合宿中の車いすソフトボール日本代表が企画し、健常者も参加。車いすに乗ってボールを追う姿に、選手から檄(げき)とエールが飛んだ。

ウィルチェアは、車いすの英訳。コートには「ハ」の字形の車輪が付いた競技用車いすが22台備えられ、誰でも使える。

「障害者の方だけが集い、使う施設では時代に合わないのではないか、という考えがありました」。コートの整備に携わった東大阪市都市魅力産業スポーツ部長の栗橋秀樹さん(59)は施設の意義をこう語った。

栗橋さんによると、コートの完成まで東大阪市は2つの「宿題」を抱えていたという。
1つは、約1・5キロ南東にあった「ウィルチェアースポーツ広場」。市内に拠点を置く車いすソフトボールチーム「関西アンバランス」から練習場所の確保が難しいとの相談を受け、平成29年に開設された。

スポーツ広場といっても、大阪広域水道企業団ポンプ場の駐車場の空きスペース。水道施設内で、障害者が使える多目的トイレは新設できない。近くのコンビニが協力に応じてくれたが、栗橋さんは「選手たちも気を使い、トイレを借りるときは買い物をしていくようなこともあった」と明かす。練習はできたが、トイレはネックだった。

もう1つの宿題が「聖地・花園」のあり方だ。2019年のラグビーW杯の会場に選ばれた際、会場の整備費用の協力を求めて企業回りをする中で、栗橋さんは義肢メーカーの社長からこう問われた。

「聖地という言葉の意味は分かっていますか」

栗橋さんは「恥ずかしい話、衝撃を受けました。車いすラグビーもあるわけです。市長とも、誰でもスポーツを楽しめる場所にしなければという話になった」。日本に前例のない、車いすスポーツ専用のコート造りが動き出した。

花園に障害者用施設を造るのではなく、障害者も使える花園に-。その思いを、関西アンバランスのメンバーで日本代表の赤井正尚さん(46)は、コートのすぐ横に造られた駐車場から感じた。

「花園のような大きな施設は広い駐車場も多いが、車いすを使う人にとっては試合や練習会場まで荷物を運ぶのに苦労するんです」と話し、駐車場の場所まで配慮された点を評価する。

赤井さんは「スポーツでは障害者と健常者で注目度の差がある」と指摘し、「身近に障害者スポーツを見る機会はなかなかない。花園でやっているといえばみんな場所が分かるし、障害者スポーツを見てもらえるかもしれない。花園にあるというのがいいんです」

7月24日の車いすソフトボールの体験会には、足を止めて様子をながめる散歩やジョギング中の人がいた。障害者スポーツが日常の景色に溶け込む姿に、栗橋さんは「スポーツはみんな好きですから」と笑顔を見せ、「車いすソフトの日本一を決める大会をここでやれたらいいですね」と語った。(渡部圭介)

※東大阪市立ウィルチェアスポーツコート
2月にオープンした広さ約4500平方メートルの競技場で、多目的トイレと電動ベッドもある救護棟が設けられた。テニスコートなどで使われるものと同じ素材を使用し、地面からの反射熱を和らげるための塗装が施されている。車いすソフトボールのほか、パラリンピック種目のラグビーやバスケットボール、ボッチャなどのラインが引いてあるが、テニスなど健常者の利用も可能。1時間千円。

※車いす=wheelchair=ウィルチェア 車輪=wheel ホイールは日本語発音

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スポーツ苦手な子どもが心置きなく使えるコートも欲しいです。発達障害の子どもの場合、発達性協調運動障害(Developmental Coordination Disorder =DCD)といって不器用な子が多くて、学校でも地域でもスポーツの楽しさを味わう事ができません。上手な子の中に入っていてもパスも回ってこないし、お地蔵さん状態でいても何も楽しくないので、「スポーツ嫌い!」な子はとても多いです。上手な子にしてみれば、敵味方間違えてパスしたりする子にはゲームがしらけるのでパスを回しません。そういうことで、ただでさえ少ないゲームコートから障害のある子は追い出されてしまいます。

もっとたくさんコートがあれば、下手な人でもスポーツが楽しめるのにと思います。有料道路や鉄道の高架下にはたくさんの空き地があります。所有権は各会社にありますが、自治体は管理することを条件に無料で借りる事ができます。ところが、コロナ禍ではせっかく障害者用トイレまで作った公園でも、感染予防に責任が持てないと閉鎖してしまうのです。高架下に発達障害の子どもが遠慮なく使えるスポーツコートが欲しいです。ついでに、発達障害のある子にスポーツの楽しさを教えてくれる、様々なスポーツコーチも地域で養成してほしいと思います。

例えば、高架下の障害者用のコートとトイレ、駐車場(車いすが使える仕様)は行政が作るが、その管理はNPO団体等を作って、利用団体が管理費を出し合う形で任せるなどやり方は色々あると思うのです。ぺんぺん草が生え、フェンスで囲まれた高架下空き地を、指をくわえて見ているスポーツ愛好家や子どもの支援者は少なくないと思います。障害のある人もない人もスポーツが楽しめるように、高架下の空き地全面有効利用の政策を掲げて立候補する政治家が出てこないものでしょうか。

 

出場逃したアスリートは東京パラをどう見たか

「感動ポルノと違った」出場逃したアスリートは東京パラをどう見たか

9/9(木) 【朝日新聞】

スポーツの奥深さを見る者に感じさせてくれた東京パラリンピック。その舞台にわずか「1センチ」の差でたどり着けなかった選手がいる。2016年リオデジャネイロ大会の陸上男子400メートルリレー銅メダリストで、前回12位に終わった走り幅跳び(上肢障害T47)への出場を目指した芦田創(はじむ)(27)。彼の目に東京大会はどう映ったのか。閉幕の日、記者が話を聞いた。

■あと「1センチ」で逃した出場
――代表選考期間に残した記録は6メートル87。内定の条件となる期間中の世界ランキング6位まで、1センチ足りませんでした。

「パラリンピックに選手として出られなかったことが、やっぱり、めちゃくちゃ悔しくて……。これは一生、悔いとして残るんだろうなと思います」

――自分がいない大会を、どんな気持ちで見ていましたか。

「意外と、客観的に見ることができた。純粋に競技として『面白いな』と思う部分だったり、種目によっては『まだまだ、これからレベルが上がっていくんだろうな』という部分だったり、すごく考えさせられながら向き合ったパラリンピックでした」

――これまでの大会との違いを感じましたか。

「パラアスリートを障害者としてではなく、よりアスリートとして評価する時代になってきたんだなと感じました。メディアの報じ方に、その傾向が表れていた。きっとメディアの方々も、議論を重ね、勉強を重ね、どう報道するか、すごく考えてこられたのでしょう」

■「感動ポルノ」とは違う報道
――パラアスリートとして、その変化をどう思いますか。

「純粋なスポーツ報道になっていて、感動を誘う題材として障害者を描く『感動ポルノ』とは全く違った。それはすごいことだなと。パラアスリートがアスリートとして評価されることで、本当の意味で社会って良くなっていくというのが私の意見です」

――競技レベルの高まりが続くパラスポーツには、どんな未来が待っているでしょうか。

「もっとハイパフォーマンスが生まれるスポーツになるためには、ある種のヤジやバッシングが飛ぶくらいでないと。例えば『この障害だったら、もっとやれるんじゃないの?』といった観客の声が出始めたら、本当の意味でスポーツとして確立されるというのが私の感覚。何大会か後のパラリンピックには、そんな世界観が現れると思っています」

――出場を目指した走り幅跳び(上肢障害T47)も、メダルラインは5年前から23センチ伸び、7メートル34になりました。

「正直なところ、出ていても勝負にならなかった。8番(記録は6メートル89)以内には入れたとしても、メダルを狙うには厳しかった。それくらいレベルが上がっています。これから3年後のパリ大会を目指す上で、相当な覚悟を持ってトレーニングに励まないと。競技全体のレベルアップに貢献できる選手になれるよう、頑張るつもりです」(聞き手・松本龍三郎)

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パラリンピックの走り幅跳びは凄いです。両足義足のヌタンド・マラング選手(南アフリカ)は7.17mも跳びました。オリンピックはミルティアディス・テントグルー(ギリシャ)が8.41mですからまだ差はありますが、小学6年生でよく跳んで4m位ですから倍近くを跳んでいく義足のパラ選手はまさに超人です。

パラリンピックの学校観戦については、当初想定した2割も観戦できず大事な教育機会を逃したと思います。オリンピックには見向きもしない小さな子どもでも、手足がない人や目が見えない人が走ったり泳いだりしている姿は注目して見るものです。そして、誰かが障害についてあれこれ説明しなくても、障害のある人が凄い記録を出している姿には多くの子どもが驚き、感動をします。

子どもにとっては、感動ポルノの演出は必要ありません。見たまま、そのままで十分です。ただ、知的障害の競技でのハンディーキャップは分かりにくいかも知れません。それでもダウン症の人が楽しそうに踊っている閉会式はきっと伝わるものがあると思います。そして、こうした取り組みが4年に一度ではなく日常的に積み重ねていけるなら、芦田選手のいう「もっと頑張れ!」という檄が飛ぶパラの世界がやってくるのだろうと思います。

苦行じゃ意味がない 障害児の「療育」はほどほどに

苦行じゃ意味がない 障害児の「療育」はほどほどに 自分らしく、生き生きと暮らす

7/4(日) 【オトナンサー】

「療育」とは、障害のある子どもが社会的に自立できるようになるために行う教育のことです。わが子に発達障害があると分かると、療育を受けさせる親御さんも多いと思います。

しかし、療育を「定型発達児に近づけること」と勘違いし、苦手を克服させようと必死に努力させたり、「やればできる」と過度な期待を抱き、何でも1人でやらせようと試みたりする「熱心な無理解者」と化している親御さんや支援者がいるのも事実です。こうなると、子どものためであるはずの療育が、子ども本人にとっては苦行となってしまいます。

子どものための「療育」
療育は子どもが日常生活を送りやすくするために、こだわりの緩め方を学んだり、コミュニケーションの取り方を学習したりする場です。「一つでも、普通の子と同じことができるように」と定型発達児に近づけようとすればするほど、本人の自己肯定感を下げるだけになってしまいます。もし、そうなってしまったら、「やらない方がよかった」ということにもなりかねません。

一方で、親にとって、療育はどのような意味があるでしょうか。それは、周りが定型発達児の親ばかりで孤立無援の状態だったところから、同じ障害を持つ子を育てる保護者との交流が持て、居場所が見つかることです。また、療育の様子を見学して、親が支援の仕方を学ぶことができるなどのメリットもあります。ただし、周りのママ友が熱心すぎて“才能の温泉掘り”に必死になっていたり、「熱心な無理解者」の支援者がいたりしたら、その人は良い手本ではないので気を付けなくてはなりません。

音が怖いなら…
私の息子は知覚障害のある自閉症児です。聴覚過敏のある息子は幼児期、公衆トイレのハンドドライヤーの音を怖がっていたため、外出先でトイレに行けませんでした。そのため、療育施設ではこれに慣れるための訓練を受けていました。

実際、ハンドドライヤーを怖がる自閉症の子は多いようで、ママ友の中には「家庭での練習も必要だ」と思い、自宅のトイレにハンドドライヤーを設置し、親が“療育の先生”となって練習をしている人もいました。しかし、これでは子どもにとって、家が“恐怖の館”になってしまいます。

息子が次第に療育を拒むようになってしまった中、当時通っていた児童専門の精神科の主治医に、ハンドドライヤーを使う練習をしていることを伝えました。すると、「そんなことをしていると将来、2次障害を起こして入院することになりますよ。そんな練習は今すぐやめなさい。お母さんがハンドドライヤーのないトイレを探してあげて、そこを使えば済むことです」と叱られたのです。

さらに「障害児なんだから、堂々と多目的トイレを使えばいいんです。そこだったら、急に誰かが入ってきて、ハンドドライヤーを使うことはないでしょう。息子さんも安心してトイレが使えるはずです」と言われました。実際、この病院には、親がわが子を思って、「定型発達児と同じことができるように」と引っ張り回した結果、うつの発症やリストカットなどの深刻な2次障害を起こしている子どもが多く入院していました。

私は主治医に言われた通り、ハンドドライヤーがない公衆トイレを探して使うようにしました。駅やデパート、ファミリーレストランなど、外出時に利用する機会が多い場所のトイレはハンドドライヤーの有無、設置個数について特によく調べました。

やがて、外出時はいつも、トイレを我慢している様子だった息子が、私と一緒のときは公衆トイレに入れるようになったのです。中学生の頃、ボウリング場に行ったときには、かつて、あんなに怖がっていたハンドドライヤーをうれしそうな顔をして使っていました。

なぜ、息子は苦手だったハンドドライヤーを怖がらなくなったのか。それは主治医の助言以降、安心・安全を確保した状態でトイレを利用できるようにしたから、そして、息子自身が14年という人生経験を積み、3歳の頃と違って苦手なものにも挑戦できるようになったからだと思います。

息子にとって、いつしか、トイレは恐怖の場所ではなく、「こだわりの場所」になっていったようで、公衆トイレは今や、息子が一番好きなものになりました。特に便座のメーカーや型番をチェックするのが大好きで、文字を書くのも絵を描くのもトイレのことばかり。外出先でトイレを見つけると吸い込まれるように入っていきます。

成人した息子を見てしみじみと思うのは、幼い頃に「この世界は怖くない。安心、安全だ」「先生や親は自分を脅かす存在ではない」「大人は自分を守ってくれる人間だ」ということを体験させれば、子ども本人の力で自然に乗り越えられるようになるということです。世の中は定型発達の人が生活しやすいようにできています。そのため、社会になじめるように練習していく必要はあります。しかし、それが行き過ぎるとデメリットもあると私は思うのです。

障害のある子どもは定型発達の子どもと同じやり方では学びづらいです。療育とは、その子に合ったやり方でできることを増やし、自分らしく、生き生きと暮らせるようになるために行うものです。何のための療育なのか。誰のための療育なのか。「療育はほどほどに」という考え方も大切にしたいものですね。

子育て本著者・講演家 立石美津子
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掃除機の音が怖い自閉症児の事を思い出しました。小1のA君は体育館に入れず、誘導すると逃げ出したり泣きだしたり、誘導する大人を激しく蹴りに来たりするのでした。聴覚過敏のASD児が多いことは知っていたので、体育館の反響音とか喧騒が怖いのだろうと、無理強いはせずに声かけはしますが入場は本人の主体性を尊重していました。。その後に、T君の就学前通所施設(今の児童発達支援事業にあたる)の話を聞いて、原因が分かりました。

確かにT君は聴覚過敏で、園児が集まるプレイルームの喧噪が嫌で入れなかったそうです。ところが、それではT君が集団性を学べないと言う理由で、プレイルームに入れるために、T君が嫌いな掃除機でプレイルームの入り口のT君を追い立てて入れていたと言うのです。掃除機音に追い立てられるわ怖いプレイルームに入れられるわで、T君がPTSDを抱えてしまったと言うわけです。

小さい子は、力が弱いですから、大人の強制力で簡単に屈服させられます。しかし、やがて身体が大きくなり幼少の期のトラウマを抱えたままの場合は、衝動的に暴れたり暴力をふるったりするようになることがあります。言語発達に遅れがある場合は、恐怖の原因を大人に語る事すらできません。こうして、発達障害とは何の関係もない行動障害を抱えることになります。無論、当時の大人はそんな事を知るすべもなく「集団性」を優先したのです。ASDの事を知らない事業所に療育を受けに行ったばかりに、PTSDを負わせてしまったのです。

熱心な療育が間違っているのではなく、障害特性も良く把握しないまま、「慣らそう」としたり「できるように」しようとするのは療育ではありません。ただの、お節介で迷惑行為なのです。他にも、思春期に荒れるのは、受動型のASDで絵カード支援をした子どもに多い等というデマ説がありますが、これは、理解コミュニケーションばかり教えて、表出コミュニケーションや交渉を教えなかった結果です。療育者が、コミュニケーション支援を正確に学ばずに、絵カード支援を見よう見まねで「熱心」に実施した結果です。私たちが絵カード支援で、安くはないPECSマニュアルの熟読を勧め、高額だけど支援者トレーニングを受けて欲しいと言うのはこういう理由があるのです。

しかし、療育技術はその時代の限界性はあるとは言え、支援者が子どもと養育者をリスペクトして、子どもの発達や障害特性に支援者がアンテナを張っていれば、効果的な療育が見つからない場合はあっても、間違った療育を強いることはないと思います。それを筆者は「ほどほどの支援」と呼んでいるのかも知れません。