すてっぷ・じゃんぷ日記

基準のあいまいな理由

A君の検査を児相で行うと発達指数が高かったので、療育手帳を返すように言われ返上したそうです。療育手帳がなくても法律上は児童通所支援事業は使えますが、このままではサービスが使えなくなるのではないかと保護者の方は心配されています。例えば、京都市療育手帳交付要綱での目的は、「第1条 この要綱は,知的障害児及び知的障害者に対して(中略)これらの者に対する各種の援助措置を受け易くするため(中略)知的障害者の福祉の増進に資することを目的とする」とあり、知的障害者の判定に基づくものです。ただ、国は知的障害の基準を定めていません。従って、判定を任される各自治体によって境界域の人の知的障害の判定範囲が違うことがあります。

判定にあたる児相や知更相は、概ねWHOが定めたICDの知的障害の基準で、各相談所の心理士が検査し医師が診断することになっています。その大枠は、知能検査の平均を100点としたときに2標準偏差(30点)以上低いと知的障害の範囲内だとしています。しかし、IQが70を超えていても日常生活が困難な人たちもいますから、こうした人も知的障害として診断し療育手帳を発行しています。ICF(国際生活機能分類)では社会参加の状態を健康の基準にしていて、IQだけで判断してはいけないとされています。逆に、IQが70近辺でも学習や生活に支障がなければ知的障害とは言えない場合もあるかもしれません。

障害はその国の文化の状況にも影響され、知的障害の判定もまた時代や環境に影響されやすいと言えます。これが、基準があいまいな理由なのです。しかし、ここまで書いたように、あくまでもこれは当事者が困っているなら最大限に適用してしてサービスに結びつくようにしたものです。境界域の人を決まった数値で足きりしないために境界を曖昧にしているのです。下の図は正規分布のグラフですが、グラフのIQ85〜70の知的障害の境界域は空白ではなく連続的に続いているのです。ここから知的障害にしますと言う線引きは科学的でも公平でもないのです。

同じようなことで、特別支援学級や支援学校に在籍していたら児童通所サービスは行うが、通常学級在籍の人には受給者証を発行しないというようなことを平気で言う行政官がいるそうです。世界の特別支援教育の流れは、在籍でサービス量を決めず、個々人の特別なニーズでサービス量を決め、障害のあるなしに関わらず通常のインクルーシブな環境に入れようとしています。それなのに、特別支援の在籍がないと児童通所サービスが受けられないとなれば障害のある人をどんどん特別支援学級や支援学校に囲い込むことになります。これが多様性社会と逆行するのは、ちょっと想像すればわかることです。在籍で線引きをすれば決める人は楽でしょうが、境界域の人は通常学級で生活や学習に困難を抱えていても療育サービスを受けることができません。

確かに、学校も在籍で特別支援の人員など財政的根拠ができるのでサービスの必要な人にはできるだけ特別支援学級在籍に誘導します。その結果、今の特別支援学級は一昔前なら通常学級にいた人がたくさん在籍しています。その分、昔は支援学級にいた子が、支援学校に流れ込んで、都市部ではこれが支援学校の過密を生む原因の一つにもなっています。しかし、これは学校定数法が多様性社会と言う名前すら生まれていない大昔に作られた法律であることが原因です。ゆくゆくは欧米のように個人のニーズで決まるバウチャーサービスのように変化していくと思います。

サービスの正しい在り方は、一人一人の個性を見てその弱い部分に支援が必要なものかどうか、社会の変化に応じて支給の是非を考えることです。数値だけで判断するポンコツ診断や、特別支援の在籍の有無でサービスの有無を決めてはならないのです。通所支援事業の対象も明確な基準を設けていないのは、困難は個人や家庭の状況によって違うので、相談内容で決めて行こうという事になっているからです。先ほども述べたように、このあいまいさは境界域をできるだけ不利にしないという趣旨からです。

児相の判定が知能検査の数値に引っ張られすぎていると感じる時もあります。知能検査の数値が安定するのは高学年以降ですから、それまでは疑わしきは支援すればいいのだと思います。療育支援は早い方が効果があり、不必要な支援は子どもの方から断ってくるものです。そして、時期を逃すと療育支援のコストパフォーマンスはガクンと落ち、当事者の受け入れのモチベーションもなかなか上がらないものです。問題が大きくなってからの対症療法的支援よりも予防的な支援の方が良いのはどんなジャンルでも同じです。